先日の大河原会員からのメールについて、渡辺会員から下記のメールをいただきましたので、皆様に配信させていただきます。
以下渡辺様から↓

先日の大河原会員のご意見に賛同する者の一人として、そこにご提案のそのファンドに似た構想が、はるか昔の運輸省にあった、という歴史には記されていない、私の知るあるエピソードを、蛇足として付け加えさして戴きたいと思います。。

以下は、1960年頃(あるいは、もう少し後のこと?)と記憶しますが、元・辰馬汽船・社長で、後に政界入りされて厚生大臣も務められた 山県勝見様から、私が直接伺った話です。
なお私は、趣味でのクルーズ熱心家を自認していますが、海事関係の仕事に携わった経験は無いので、以下の記述で海事関係の業界用語などに誤りがあるかも知れませんが、どうかお許し下さい。

——————————————
太平洋戦争で、当時の日本の全ての船会社が保有する貨物船、旅客船等は、半ば強制的にその船員共、日本政府(陸軍省・海軍省)に徴用(徴発?)されて、終戦までにその殆どを失い、後に言う「海の墓標」を築くことになりました。これは、海事業界でよく語り継がれている話で、会員の皆様もよくご存知のことと思います。

で、ここからの話は、戦時に失った船の補償費や、亡くなった船員やその家族に対する弔慰金に関するものです。

結論を先に申しあげると、戦後のドサクサ時に補償金や弔慰金は、その金額は不充分ながら、政府から国債や現金で各社や遺族に支払われたそうですが、時の政府(吉田首相や大野伴睦?は、その他に弔慰金とも言える、ある「ファンド」を業界のために、毎年積立て始めた、という事実があるのです。

辰馬汽船も、勿論ある金額を受けっとたそうですが、それは政府側で一方的に金額等を査定して有無を言わさず支払われた、と山県勝見・元社長は当時を述懐しておられたことを、私は昨日の事のように鮮やかに覚えています。
特に私は山県元・社長が、「・・・たとえ共同運航という形ででも・・・」、という言葉を使われたことを、なぜかはっきり覚えています。                      
                           *

戦後間もない時だった、と山県勝見元・辰馬汽船社長は話しておられましたが、共に連合国と戦って顔馴染みの、ある運輸省幹部からは、失った多くの船舶や船員の保障費等の金額を一方的に告げられた後、その運輸省幹部は次のように付け加えたそうです。

『この金額等に関しては、山県・元社長には多々ご異存があると思うが、日本政府としては、全ての船会社に対する慰謝料の意味も含めて、今回の補償金等の(一時金の)他に、運輸省内で、これから毎年かなりの額を将来にわたって積み立てて、その政府積立金(=ファンド)があるかなりの額に達した将来、例えばその積立金で、各社で共同運航する客船を建造するなり、業界で有効に役立てて貰える手段を講じたので、左様ご了解戴きたい。しかしこの事は、GHQ(連合軍総司令部)に知れては大変なので、この事は社長だけの腹に納めておいて欲しいが、本件は担当大臣が交代する際に、重要申し送り事項として口頭で伝えるから』 と。

冒頭に述べたように、山県・元社長は、その後政界入りされ、厚生大臣の要職も務められたので、その積立が行われているかどうか、確認できる立場にありましたが、積み立てはその後確実に実行されていたそうです。

ところがそれから暫くして、伊勢湾台風が東海地方を襲い大被害が発生しました。どうしてそういった荒治療が、ときの政府内で可能だったのか、私には理解できませんが、かなりの金額になっていたその積立金(ファンド)は、台風の被害を受けた伊勢湾の港湾復旧費の一部に充当されてしまい、以後の積立ては、いつの間にか止まってしまったそうです。言い換えると「海の墓標」が伊勢湾岸の護岸工事に役立った、ということになります。

以上、かっての運輸(現在は国土交通省)行政の歴史の中には、池田先生がかねてより提唱され、また今回大河原会員が賛同の意を表しておられる「ファンド」の考え方が既に存在した事実があり、この事からも、今後の C & F学会などからの働き方次第では、この新たな「ファンド」は決して前例の無い話では無いナ、と私は考えたので老躯にムチ打って、PCのキーを叩いた次第です。

                          *

ところで、何で日本郵船や大阪商船などを差し置いて、内航船の運航が主体の弱小船会社の、辰馬汽船の社長の山県勝見社長がこんなところでシャシャリ出たのか・・・。

それを理解するには、太平洋戦争の敗戦の直前の、日本の海運業界をよく見ておくと、ある程度理解でると思います。
日本の敗戦直前には、日本郵船、大阪商船、三井、川崎等の大海運会社は、その保有船舶の大半を太平洋で失っていました。そこで、これまで瀬戸内海や東シナ海、日本海等の内航船による運輸が主だった辰馬汽船などが、押し出されるようにして、外航船の縄張りの中に、中小型の内航船を就航させたのです。

その象徴的な輸送船団の最後が、敗戦の8ケ月前にベトナム沖で全滅した、ヒ86船団でした。
日本海軍は、ガソリンや飛行機を造る為に必要なボーキサイト・ゴム等の資材を、東南アジア方面から日本に輸送するために、もう大型・輸送船は沈没してしまって使えなかったので、辰馬汽船の辰鳩丸(5,396トン)を旗艦として生き残った中・小型船9隻で船団を組んで、敵潜水艦からの攻撃を避けてベトナム等の沿岸沿いに、日本を目指して北上させる作戦を立てました。しかし実際には、天文航法を理解している航海士の多くは戦死して、もう居なかったので、見よう見まねで何とか操船できる乗組員が代って、地文航法(沿岸航法)とか称して、陸地を確認しながら操船せざるを得なかったという証言もあるくらいです。

9隻の船団の中には、東京市から徴発した優清丸(600トン)も参加していました。「清」の字から想像できるように、元はオワイを東京湾外に海上投棄する為の、東京市・清掃局所属のハシケで、日本海軍はオワイの代わりにガソリンを満載して日本に輸送しようとしたのです。オワイ船の船頭が、天測できる筈が無いのは明らかでしょう。
そんな訳で終戦直前のその頃には、山県・辰馬汽船元・社長は海軍や運輸省の幹部と、頻繁に顔を合わせておられたのです。
それに、その頃には日本海軍は、大型船舶の大半を失っている日本郵船や大阪商船の幹部は、もうお呼びでは無かったのかもしれません。

最後に、山県・元社長と私との関係です。
二人は年齢的には親子ほど離れていますが、時には対等の立場で議論したりする時があったのです。

山県・元社長は、かって銘酒・黒松白鹿で有名な辰馬本家の六男坊の出です。しかし、辰馬家の男児としては珍しく、山県元・社長は小さい時から頭脳明晰で知られ、しかも六男坊ということで、比較的自由に進学先を決められる立場にあったこともあり、辰馬家が経営する甲陽中学などには見向きもせず、なんと神戸一中にサッサと進学してしまいました。更にその後は、三高、東大と当時の秀才コースを進みました。そこで慌てたのは、当時の甲陽中学を持つ辰馬本家です。あんな秀才を関西に置いてては、甲陽中学は進学校でない、と世間から格付けされる、とばかり、東京の山県家に養子に出して、縁を切った積りでいました。旧制の甲陽中学は、荒れたままでした。

ところが、戦後の財閥解体で、辰馬家はピンチに遭遇します。慌てた本家の兄は、この難局を切り抜けるには勝男しかない、とばかり既に東京から呼び戻して本家の諸会社の要職を難なくこなしていた山県勝男を、各社の社長に登用しました。
山県・元社長は、そのドサクサに紛れて、甲子園駅前にあった当時の(旧制)甲陽中学を、自分が進学したくなるような中学校に改革しようと決意したようです。
新中学は、辰馬汽船社長時代に、木造客船の建造を見込んで買い付けていた船舶用の木材を利用して、かなり離れた香炉園の海岸に建設して、甲陽工専として開校していた建物を使うことにしました。そして、先生には旧制・甲陽中学の先生は一人だけ横滑りで採用した、数学が担当の永井先生だけで、あとの先生全員は山県・元社長個人の人脈を利用して、主に実業界からの縁を利用して集めました。例えば、従来から面識のあった画家の須田剋太画伯が美術・工作を、また丁度京大を卒業されたばかりの、関西汽船の神田社長の御曹司は、国語を担当しましたが、どの新・先生も従来の中学には無い、全く新しい教育を心掛けました。
奇しくも、当学会の梅田会長は、その幼時に、その須田画伯のアトリエで、須田画伯の奥様(画家)からお絵かきを教わった、と私は聞いています。

そして最後はというと、「新・甲陽中学はどんな中学であって欲しいか」、を新入生の代表数名と、山県・元社長とで直接相談して決めることにしたことです。
当時は敗戦直後で、学制が6・3・3制に変ったて、新入生の大半は草鞋(わらじ)履き通学でしたが、新入生の代表の一人が、皆が揃えの革靴が欲しい、と云ったところ、山県・元社長は父兄に図った上で、制靴は勿論、制服や制帽まで作ることが決まりました。
ここまでお話してくれば、もうお判りだと思いますが、その新入生代表の一人に私が入っていたのです。今から考えると、私は当時から、かなり過激な提案をしていたようです。

私が学校を卒業して何年か経った頃、山県・元社長から、かっての新入生・代表の同窓会を開催するから、とのお誘いがありました。
その後、山県・元社長が東京に移られてからも、私の勤めも東京に変わったこともあり、新川の川沿いにあった山県・元社長のお宅(山県家は、辰馬本家の造ったお酒の卸・小売りをする商家)にお邪魔して、いろいろお話しを伺う機会がありましたが、お逢いする度に、両者の年齢差が縮まってきたような印象を受けました。

これは、時代はそれよりうんと下がって、拙著が無事に刊行できたときの話です。
そのお礼に、編集部長に我が母校の銘酒を贈ろう、と私は考えつきました。私は名古屋駅の上に新装開店したばかりのデパートの酒類売り場に行き、黒松・白鹿をここに配送して欲しい、と頼んだところ、その店員さんは首を少し傾けながら、売り場の奥に入って行きました。暫くして出て来たその店員さんは、私に申し訳けなさそうに「その黒松・白鹿とかいうお酒は、名古屋では、きっと東山動物園で扱っておられますヨ」と、ご丁寧にその動物園に行く地下鉄の駅の案内までしてくれました。 アア・・・。

その山県元・辰馬汽船社長のご遺族方は、その後山県記念財団を立ち上げられて、その事業の一つとして、我が学会も委託研究を受託しましたが、たの事業として、毎年海事関係の優良図書の表彰を続けておられます。
拙著も 2011年の第一巻に続き、第二巻も応募しましたが、いずれも落選しました。今度の第三巻も、私は懲りずに応募する積りですが、結果はもう見えているように思えます。アア・・・。

(以上)

カテゴリー: 学会ニュース

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です